小林慎太郎のブログ

ラブレター代筆、プレゼンテーション指導、スピーチライティングなどをサービスとして提供するデンシンワークス(dsworks.jp)代表、小林慎太郎のブログ

「過去」は変わる

あけましておめでとうございます。

本年も宜しくお願いいたします。

 

ふわふわと不定期に更新している本ブログですが、更新のたびにメールで感想を寄せてくださる奇特な方がいらっしゃることもあり、今年もはりきって更新をしていきます。

 

さて、新年一発目は、以前、『「分人主義」について』というエントリーでもそのお名前を出させて頂いた、作家の平野啓一郎さんの著書を読んでの感想、というか、考えたこと、思ったこと、を記します。

 

 

先日、平野さんの『マチネの終わりに』という著書を読了した。物語の建付けとしては、いわゆる恋愛小説、婚約者のいる40歳の女性と38歳の天才ギタリストとの、単純に楽しいだけではない、深く、複雑で、一辺倒ではない、大人の恋愛小説という形だが、単なる物語というわけではない。

 

恋愛小説という形式を借りて、そこかしこに、世の中や人生についての示唆が盛り込まれている。

 

僕がつい先日に38歳になり、主人公のギタリストと同年齢ということも手伝って、物語への共感だけではなく、平野さんがそこかしこに散りばめたそれらの示唆に対しても、深く共感するところがあった。

 

特に、以下一文に対しては、共感というか、「あぁ、そうだよね」と、安堵を覚えた。

 

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

 

よく、賢しい人が、賢しい表情で、「過去と他人は変えられない。だから、今と未来を大事にしよう」だとか、「過去を受け入れて生きよう」と、賢しい声色で言うのを耳にする。

 

なるほど、理屈としては正しい気がするし、何だかかっこいい。

 

でも、諸手を挙げて肯定することのできない引っかかりが、僕の中にはあった。

 

「過去は変えることができない」と割り切れるほど、あきらめられるほど、僕は大人ではないし、「過去を受け入れて生きよう」と言えるほど、度量も大きくはない。

 

それに、何よりも、過去は過去、と割り切るほど、38年という時間、交差した人々、過ぎた景色、通り抜けた感情は、軽くはないし、薄くはない。

 

だから、過去に対しても、僕は何か意味付けがほしいと思ってきたし、今でも思っている。

 

そんな時に目にした上記の言葉。

 

「あぁ、そうだよね」と、安堵を覚えた。

 

確かに事象としての過去は変えられない。

50点だったテストが、100点になるということはない。

 

ただ、事象は同じだとしても、その捉え方や意味はいくらでも変えることができる。

文中では、

 

花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中でもう同じ蕾ではない。

 

蕾を例に、その意味を説うている。

道端で蕾を見つけたとする。それが何の花か知らないままであれば、記憶の中の蕾は「道端の蕾」でしかないが、数日後に通りかかった時に、蕾が綺麗な薔薇へとその姿を変えたのを目にしたら、そうではなくなる。記憶の中の過去に目にした蕾は、単なる「道端の蕾」ではなく、「薔薇の蕾」となる。つまり、未来が過去を変える。

 

そうだと思うし、そうだと思いたい。

 

僕は会社員として働くかたわら、個人事業主としても活動をしているけれど、その原動力は、今や未来を楽しいものにしたい、というのももちろんあるのだけれど、それよりも、過去の反省や後悔、過ち、そういったものに意味付けをしたい、変えたい、過去を変えたい。そういった気持ちが根幹としてはあるのではないかと、本書を読み進めつつ思った。

 

「蕾は蕾だよね」と、大人を気取って、賢者を気取って日々を過ごすのではなく、蕾を薔薇にしたいと思っているのだな、と、自分のことながら、他人事のように、ふと、客観的に思った。

 

人がその人生を生きていれば、忘れたい過去や、暗い過去、人には言えない過去、の1つや2つあると思う。

 

そういう時に、「過ぎたことだから・・・」と飲み込む必要はないし、「失敗してしまったから・・・」とあきらめる必要もない。ましてや、過去に引きずられ「私なんて・・・」と卑下する必要もない。

 

過去は変えられる。

 

今が、未来が、過去を変えてくれる。

 

 

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