小林慎太郎のブログ

ラブレター代筆、プレゼンテーション指導、スピーチライティングなどをサービスとして提供するデンシンワークス(dsworks.jp)代表、小林慎太郎のブログ

『この世界の片隅に』に、出くわした

先週、会社帰りに、観ました。話題の『この世界の片隅に』。

感想としては、「あぁ、つかまってしまったな……」という感じです。

 

僕は、生来の過剰な自意識、羞恥心、弱さ、脆さ、無責任、色々な要素があいまって、悲しいことやつらいことと、真正面から対峙することが苦手。まあ、得意です、という人もいないとは思うけれども。

 

悲しいことは悲しくて、つらいことはつらいから、顔を背けてしまう。

悲しさに涙を流すような純粋さは持ち合わせておらず、残酷な現実に立ちむかような責任感や強さも持ち合わせていないため、代わりに、にやにやへらへらしながら、悲しさや現実を茶化そうとする。「悲しいことは笑いに昇華すればいいさ」と人格者ぶって、茶化そうとする。

 

ただ、最近は、37歳という年齢がそうさせるのか、はたまた、二児の父親という立場になったせいかはわからないが、茶化すのが下手になってきた。

 

昔は、ははは、と澄まし顔で茶化せていたことが、上手く茶化せない。

笑おうとしても、苦笑いになってしまう。

 

ああ、なんだかまずいな、と思っていたタイミングで、この映画に出会った。

出くわしてしまった、という方が正確か。

 

「ああ、つかまってしまったな……」と、思った。

 

顔を背け、逃げようとしていた僕の手首を、この映画が、やさしくつかんだ。

能年玲奈(現:のん)の、大人びた子供のような声が、呼びかけ、振り向かせる。

 

よし、明日から頑張るぞ!と前に進ませる映画ではないし、かといって、

ああ、昔はこんなだったな、と過去に戻すような映画でもない。

ん?ちょっと待てよ……、とその場に立ち止まらせる、そんな映画だと思う。

 

結論としては、『あまちゃん』ですっかり”のん”の魅力に取りつかれていた僕としては、彼女の表舞台への復活を、心底喜ばしく思う。そういうことです。

 

 

 

数打てば当たる、かもしれない、と、思う。

さて、周りの一部の人から、暗い、と揶揄されている本ブログですが、ブレることなく、引き続き暗いトーンで書いていきたいと思います。

 

唐突ですが、僕は仕事をする上での理念として、数を打つ、ということをとても重視しています。

 

2年前の35歳から僕は個人活動をはじめたのですが、さすがにその頃になると、自分が天才でも秀才でもなく、深い思考力があるわけでもなく、鋭い勘の持ち主でもなく、突出したビジネスセンスがあるでもなく・・・ということに気づきはじめました。

 

だから、個人としての活動をはじめるにあたっても、戦略だ何だといって絞るのではなく、思いつくままに、気の向くままに、色々な事柄をサービスとして掲げようと思いました。結果として、プレゼンテーション指導、学生さん向けの面接対策、ラブレター代筆、傾聴サービス、自分史作成、スピーチライティング・・・など、節操なく、戦略なく、思いつくままやりました。

 

そして、面接対策に関しては、実際にお会いすると学生さんからお金をもらうのは気が引けてしまい「お金は結構ですよ」と無料にし、さらに「あ、ここのお金は僕が払いますよ」と喫茶店代を二人分払い、ということを繰り返した結果、当然赤字を垂れ流す結果となったので廃止。

 

傾聴サービス(いわゆる悩み相談)は、旦那さんからのDV被害、離婚した旦那が慰謝料を払ってくれない・・・など、僕の手には到底負えそうにない相談のみだったため、逃げるようにして廃止。

 

などなど、紆余曲折を経た結果、ラブレター代筆が、まあまあ注目を集め、仕事もちらほら来るということで、ラブレター代筆に注力をするようになったというだけのこと。

最初から、ラブレター代筆が引きがあるということを想定していたわけありません。

 

出版に関しても然り。

スマートにさらりと出せてわけではなく、どろどろじたばたしただけです。

 

ラブレター代筆に関することを書いたら結構おもしろいかもな、とふと思ったものの、何をどうしたら本など出せるかわからないから、とりあえず、原稿を書いて、出版社に送ってみることにした。

 

そもそも、どこの誰とも馬の骨ともわからない人間から送られてきた原稿に目を通してもらえるのか不明だったが、50社くらいに送れば、1社くらい興味を持ってくれるのでは、と期待した。

 

結果としては、50社まではいかなかったが、10数社に送り、そのうちの3社ほどが興味を持ってくれた。

 

この経験は非常に大きかった。

 

それまでも「量は質に転化する」だとか「とにかく数多くの打席に立つことが大事」だとかいう言葉は知っていたが、それを実体験として感じたことはなかった。

だから、打席に立つたびに、「ほんとに結果につながるのかな・・・」とか「無駄に終わるんじゃないの・・・」と、少し不安に思うところがあった。

 

だが、実際に数打ってみて結果が出たという体験をしたことで、いつか結果につながる、という確信を持って数を打つことができるようになった。知識と知っているということと、肌感覚として知っている、ということの違いは、かなり大きいのではないかと思う。

 

今現在も、10個くらい原稿を作成すれば、どれか1つくらいは興味を持ってもらえるんじゃないか、というたくらみのもと、とりあえず現時点で実用書を1つ書き、また、生まれてはじめて小説を書いた。

 

小説は結果が出るのは来年の春先なのでまだわからないが、実用書は結果としてはダメだった。前著の時同様10社ほどに原稿を送り、そのうち2社は企画会議まであげてもらえたが、そこで没。

 

仮原稿ではあったものの、仕事終わりに夜中にひそひそと書き続け、原稿用紙で150枚分くらいは書いたので、少なからず、いや、相当打ちひしがれたが、1.5日ほどで持ち直し、今は<10個くらい原稿を作成すれば、どれか1つくらいは興味を持ってもらえるんじゃないか>計画の3作目の原稿を書き始めた。 

 

 

だから、まあ、結論として何を言いたいかというと、全然就職先が決まらない、だとか、全然彼氏・彼女ができないだとか、人それぞれ、色々と悩みはあると思うけれども、落ち込む前に、涙する前に、どれだけ数を打ったのかを振り返った方がいいと思う。

 

就職活動なら100社、恋人なら100人に告白してみて、それでダメなら、その時にはじめて落ち込めばいいと思う。

 

※ただし、就職活動を100社以上、告白を100人以上して、結果が出なかったとしても、私への苦情は一切受け付けません。

 

「夢」「目的」「意義」は、別にいらないと思う

夢、目的、意義・・・。
これらの言葉を目にすると、これらの言葉を耳にすると、僕は違和感を抱きます。
いや、率直にいうと、これらの言葉が好きではないです。
いや、キライです。

でも、その理由が自分でもよくわかってなくて、
シャイな天邪鬼なひねくれ者だからかな・・・くらいに思っていたのですが、ほぼ日の↓の記事を読んで、ああ、そうか!と、自分なりにその理由を整理できたので、今日はそのことについて語りたいと思います。

 

ほぼ日刊イトイ新聞-脳の気持ちになって考えてみてください。 〜「やる気」と「脳」の話を、池谷裕二さんと。〜

 


違和感を抱く理由は2つあり、1つは、「今」が全然楽しそうじゃない、ということ。

夢や目的、意義から物事を出発させる人は、その姿勢に対しては、「ほう、立派じゃないか」と感心するものの、「今」が全然楽しそうに見えない。

「今」を我慢することで、「今」を頑張ることで、充実した「未来」を目指す、という理屈だとは思うのですが、超がつくほどのせっかち人間である僕からすると、


「未来」までは待てないし、
「未来」があるのかどうかは不確かだし、
「未来」が具体的にいつなのかよくわからないし、


で、とにかく待ちきれません。

また、「今」を我慢する必要があるということは、そもそもとして、今やっていることそのものは、別に好きじゃない、興味がない、ということだと思うのです。


要は、掲げた夢なり、目的に到達することそのものに興味があるだけで、やっていることそのものは別に興味がないのだろうな、と。

もしくは、”夢や目的を目指す自分”に興味がある。

そのどちらかではないかと。

例えるなら、起業して会社を上場させることには興味があるが、そのための日々の業務や仕事内容は、さして興味のあることではない、ということだと思うのです。

 

「今」やっていることが心底自分が楽しめるものであれば、別に我慢は必要ないし、わざわざ、俺はこういう目的や意義のためにやってるんだ!と喧伝する必要もないわけで。


これが違和感の1つ目。

そして、違和感を抱く理由の2つ目は、義務的になってしまう、ということ。

これが前述のほぼ日の記事からの気づきだったのですが、記事内では、結婚式の常套句である「しあわせになります」という言葉を引き合いに、

 

親戚や友だちが大勢集まったりすると、
お二人は、しあわせでならねばならぬ、という
義務を背負ったつもりになってるでしょう。
でも、それは義務じゃないですよ。
しあわせになんかなんなくったって、
いいんですよ、っていうのが、
ぼくのお祝いのことばになってます、最近。
だって、そんなことに追われちゃダメだよ。
しあわせになんなきゃと思ってたら、
人に見せるしあわせになっちゃうからね。

 しあわせになろうと思ってた人が、
どう不幸になったかって歴史は
結婚にかぎらず、いっぱい見てますからね。
自分でも、小さくたくさんやってますよ。
これがしあわせなんだっていう枠に、
自分たちを当てはめたくなっちゃうんだよね。

 

という表現をされてますが、まさにそうで、


「目的を達成します!」
「意義のあることをして貢献します!」


と宣言した瞬間、それはもう義務になります。
途端に、窮屈になります。
勝手に自分で枠を設けてしまいます。
つまらなくなります。

だから、あまり、そういうものは逆に明確にしないほうがいいのではないか、と。
ふわふわぁ、とさせたほうがいいのではないか、と。


というような理由から、
僕は、夢、目的、意義、といった言葉が好きではないのだろうな、と思った次第です。


でも、やっぱり、単なるひねくれ者なんだろうな、とも思うわけですが、、

 

 

SNSは“吐き出せちゃう”から

ブログを再開しました(といっても、いつやってたの?いつ終わったの?という方が大多数だと思うので、”はじめました”という表現の方が適切かもしれませんが・・・)。

 

ブログを停止したのは(いつやってたの?という問いは一旦さておき)、一年ほど前になります。ちょうどその頃、今年の一月に上梓した拙著、『ラブレターを代筆する日々を過ごす「僕」と、依頼をするどこかの「誰か」の話。』の原稿作成が真っただ中で、ただでさえ乏しい自身の中にある「言葉」が枯渇し、原稿以外のところで「言葉」を発するのは極力避けよう、と思ったのがきっかけです。

 

それとあわせて、それまでは頻度高く更新していたfacebookの投稿も止めました。理由はブログを止めたのと同じです。

 

基本として、書くという作業は、自身の中にあるわだかまりやコンプレックス、世の中への不平不満、満たされない承認欲求、友人・知人への妬み嫉み、あんなことこんなこと、諸々、咀嚼できないごちゃごちゃちしたものを、吐き出す作業だと思っています。

 

そして、ブログやfacebookなどは、良くも悪くも、ごちゃごちゃしたものを、少しだけ吐き出すことができます。「俺の今日はこんなに充実してたよ!」「こんな豪華なご飯を食べちゃう私ってどう?」「土日も忙しいわー」などなど、埋まらない何かを、埋まったように見せると同時に、実際に埋まったような気持になることができます。少なくとも、僕はそうでした。

 

別に、それ自体は個々の自由であり、僕が否定することでも何でもないのですが、原稿を書き進める上では、中途半端に吐き出してしまえるということは、問題でした。だから、止めました。

 

で、何でまた始めることにしたの?

理由は2つ。

 

1つは、「信用」を得るため。

誰に対して?

僕は、会社員として働くかたわら、ラブレター代筆なる仕事をしています(何それ?という方は、↓の記事をご覧ください)。

hrnabi.com

 

ラブレター代筆なる未知なる仕事を、小林慎太郎という未知の人物がおこなっているわけです。相当怪しいですね。胡散臭いですね。私なら依頼しません。最近ではメディアに取り上げて頂く機会が増え、昔よりは信用性を増したかもしれませんが、依然として相当に胡散臭いことは間違いありません。

 

ですので、ブログを通して、私の人となりを多少なりとも知って頂くことで、信頼を勝ち取り、安心してご依頼を頂けるようにしたい、ということです。

 

そして2つ目は、「備忘録」として。

前述の本は、実体験をベースとしているため、執筆の最中は、過去の出来事や思い出を色々と引っ掻き回していたのですが、あれどうなったんだっけ? あの時、何があったんだっけ? と、忘れていることがたくさんありました。

 

日々の出来事を記録として残しておけば、もう少し書けることがあったと、後悔をしました。

 

ですので、次に何かあった際に細部まで思い出せるよう、記録として残しておこうという魂胆です。

 

お察しの通り、ブログを再開した理由は、2つとも打算的です。はい、すいません。

ただ、書くからには、自己陶酔ではなく、少しでも楽しんでいただけるものにしたいとは思います。

 

どうぞよろしくお願いします。