小林慎太郎のブログ

ラブレター代筆、プレゼンテーション指導、スピーチライティングなどをサービスとして提供するデンシンワークス(dsworks.jp)代表、小林慎太郎のブログ

就活における服装が「どうでもいい」3つの理由

先日NHKの番組『就活応援TV』にて、「スカートじゃなきゃダメ」という企業や大学就職課が取り上げられ批判を浴びたようだが、学生さんの立場からすると、「スカートじゃなきゃダメ」と言われると、「あ、そうなんだ」と従ってしまうくらいに、就職活動における服装の位置づけというのは不透明にして絶対的なものとして捉えられているように感じる。

 

ということで、今回は、人事から見た就活における服装の位置づけというテーマで書こうと思う。


簡潔に言うと、「どうでもいい」。以上。ということになるのだが、それだけだと5PV(そのうち4PVは自分)くらいでこの記事が終わってしまうので、もう少し丁寧に書くことにする。「どうでもいい」には3つの理由がある。


●1つ目の「どうでもいい」
ほとんどの企業は面接を3回~4回実施する。これは学生さんを精度高く見極めるため、という目的でもあるのだが、もう一方で、面接官の視点を均質化するため、という目的もある。つまり、誰かひとりの偏った選考基準に寄らないようにするためだ。面接官と言っても人間なわけで、それぞれの趣味嗜好がある。中には、スカートの女の子は甘く採点をする面接官もいなくはないだろう。

 

だが、あらゆる年次、性別、部門、役職の人間を面接官として携わらせることで、スカートであるという点だけで内定まで進むことを防ぐことができる。また、面接官を2人1組、3人1組とすることで、スカート好きのAさんが「あの子は優秀だったがパンツスーツだったから落とそう」となっても、Bさんが「え?なんであの子を落とすんですか?いいじゃないですか」と不当な選考を防ぐこともできる。私もそうだったが、学生さんの中には「面接何回やるんだよ・・・。いっつも同じ質問ばっかだし」「なんで学生1に対して面接官が3人もいるんだよ。圧迫?」と不満を感じる人もいることだろう。だが、それには上記のような理由があることを知ってもらえれば嬉しい。

 

●2つ目の「どうでもいい」
面接官にとって、少なくとも僕が面接官を務める時は、服装は加点要素でも、減点要素でも、何でもない。私の会社の場合、面接時の服装も特に規定をしていないため、スーツでも来る人もいれば、私服で来る人もいる。まちまち。スーツだからちゃんとしているな、という感想を抱くこともないし、私服だからちゃらちゃらしているな、という感想を抱くこともない。もちろん、スカートだからいいよね、ということもない。つまり、無。無のものに時間、神経を使うことは無駄でしかない。その意味で「どうでもいい」。

 

ただ、1つ言えることがあって、面接はスーツでお越しください、と決まりがある場合は、スーツがいいと思う。その場合、僕が面接官であれば、私服で来た人は落としてしまうかもしれない。それは、ルールはちゃんと守りましょう、ということではない。スーツって規定されてるけど、俺は個性的だし、ルールに縛られない人間だから私服で行っちゃうよ、というその感性がダサい。中目でスタバでMacしちゃうよ、というくらい受け入れがたい。一緒に働きたいな、とは思えない。まあ、これは一般論ではなく、あくまでも私の意見として・・・。

 

●3つ目の「どうでもいい」
幻冬舎見城徹氏とサイバーエージェント藤田晋氏の共著で『人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない』という本があるが、面接官もそうで、「学生が期待するほど見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」。学生さんの人柄、能力、将来性をまるっと見極めることはできないが、服装の良し悪しで合否を判断してしまうほどに見ていなくはない。99%の面接官は、スーツじゃなきゃダメ、という判断はしない。
『就活応援TV』は、文字通りTVなので、際立った意見を採用したのだろう。「服装は、別に、どうでもいいですね」では番組にならない。


ということで、服装は「どうでもいい」。
それだと選択肢が多くて困る!〇〇がいいよ!と言ってくれ、ということであれば、リクルートスーツがいいよ!と答えておこう。組み合わせに迷う時間を削減できる。

 

そういうことで。
就活中の皆さんに幸あれ。

 

 

 

 

 

春の池袋の夜の夢

名前が特徴的なのと、顔つきが20年前と何ら変わるところがないため、”その子”であることに疑いはなかった。友達が「いいね!」をしたことで、タイムライン上に現れたその子の投稿には、福祉施設で働く様子の写真と、そこでの近況が記されていた。

 

春の池袋の夜は騒がしかった。石田衣良原作のドラマ『池袋ウェストゲートパーク』の舞台として有名になった西口公園。新入生が入学する4月になると、夜は、新歓コンパから流れてきた学生でごった返す。そのごった煮の中のひとりとして、僕は、そこにいた。そして、”その子”は、僕の横にいた。

 

その日、ありふれたテニスサークルの新歓コンパに参加をしたのだが、たまたま座った席の横に、その子もいた。「こんにちは・・・」声を掛けられた方向を見ると、指で突いたらぱちんと弾けそうな瑞々しい眼が僕を見ていた。薄い唇をつりあげてはいるが、頬はどこかぎこちなく強張っている。決して社交的ではないが、その殻を破ろうと、頑張って声をかけてきたことがわかる。

 

僕は怯んだ。
僕などが関わってはいけない。そんな神聖な空気をまとっていた。

 

そんなその子が、それから3時間後、池袋西口公園でも、僕の横にいた。
飲み会で特別親密な仲になったわけではない。ただ、2人とも、その夜のありふれたテニスサークルの、ありふれた新歓コンパの雰囲気には、合っていなかった。

 

「よーし、じゃあこれから体操するから2人組になれ。2人組になったらその場でしゃがむように」と先生から号令がくだったものの、誰からも声がかからず、声をかけず、突っ立ったままでいたら、もう1人立っている人がいて、目が合った。そんな感じ。

 

「・・・もう帰っていいのかな?」
その子が不安げに周りを見渡しながら言った。
「大丈夫でしょ。こんな状況じゃ誰がいて誰がいないかなんかわかりっこないよ」
「そっか、そうだよね。小林くんはまだ帰らないの?」
「そだね。ちょっと酔ったから、もう少しいるかな・・・」
お酒が弱いくせに、場の居心地の悪さをごまかすために杯を重ねたため、気持ちが悪かった。
「たくさん飲んでたもんね。大丈夫?お水買ってきてあげるね」
僕が止めようとするよりも早く、腰を上げ、自販機へと向かった。
「ねえ・・・、変なこと言うようだけど」
ペットボトルのお水を僕に渡しながら、
「小林くん、小説家とかにはならないの?」
その子が頬を緩めた。
「は? 小説家?」
「うん。だって小林くん、たくさん本読んでるし、なんか雰囲気もあるよ」
飲み会の最中、お互い本を読むことが好きなのがわかり、何人かの作家や、最近話題になっている本などについて話をしていた。
「ありえないでしょ。今からプロ野球選手を目指すくらい無理があるよ」
買ってもらった水を、我が物顔で喉に流し込む。
「それに、そもそも興味がないし」
僕は、少し嘘をついた。
「なんかあるの?」
「え?」
「逆に、なんかなりたいものとかあるの?」
繕うように、会話のボールを放り返した。
その子は、西口公園の中にある噴水へと目を向けた。酔っぱらった学生が噴水の中に飛び込み、嬌声をあげている。
白い肌の上を、パチンコ店のネオンが横切る。
「・・・福祉の仕事に就きたいかな」
噴水を見やっていた目を僕に戻すと、困ったような、照れたような笑みを浮かべた。
ふくし?自身の生活において聞き慣れない言葉のため、耳には入ってきたものの、脳に入って来ない。ふくし?福祉?ああ、社会福祉の福祉か。
「福祉ってあの福祉?」
「あの福祉って?」
社会福祉の福祉?」
僕の間の抜けた問いに、控えめに頷いた。
「なんで?」
今考えれば具の骨頂のような質問だが、当時は、心底、なんで?と思った。僕も含めて、いや、僕を筆頭に、誰かのために時間を、身を費やそうとする人間は周りにいなかったから。
なんで?に対してのその子の返答は覚えていない。そもそも返答はなかったような気もするし、返答していたとしても、忘れているくらいだから、なんとなくね、くらいのぼかした答えだったのだろう。

 

その日を境に、僕たちは付き合い始めた、ということもない。連絡先を交換したわけでもない。大学内ですれ違えば、少し会話をしたりしたが、そのうち、すれ違うこともなくなった。それだけの関係。

 

それから20年。つい先日。facebookでその子を見かけた。僕とfacebookでつながっていた女友達は同じ大学だったので、サークルなのかクラスなのかはわからないが、その友達も何かの形で”その子”と繋がっていたのだろう。”その子”は20年経っても、”その子”のままだった。違ったのは、願望ではなく、実際に、福祉の仕事をしていた。

 

僕は、随分と変わった。見た目も、性格も、変わった。変わらないのは、願望が、願望のままであること。

 

2年ほど前に、私小説、というかごく私的な小説のようなものを書き、出版をさせてもらったが、それで終わり。そこから何かまとまった文章を書くでもなく、依頼があるわけでもない。

 

もうこのままでもいいかな、と思ってもいたが、”その子”を見かけてから、どうにも心が落ち着かない。あの日の、池袋の夜に、引き戻される。

 

そういえば、水のお礼、たぶん言ってなかったな・・・。
写真の中の”その子”を見ながら、そんなことも、思い出した。

 

 

 

死の床で聞きたい言葉

最近、余命宣告を受けた人の手記や、幼くして亡くなった子供にまつわる記事などを目にする機会が多い。「多い」と書いたが、きっと、目にする機会自体は以前と変わらないが、20代、30代前半の頃は流していた「死」に関する記事が、40を目前に控え、自身の死期が視野に入るにつれ、目にとまるようになった、というのが正確なところだろう。

 

それと同時に、そられの手記や記事に寄せられるネット上のコメントの数々も、しっかりと読み込むようになった。そして、ここでもまた、以前は気にならなかったことが気になるようになった。

 

「〇〇さんの記事を読んで、残りの人生、しっかりと生きなくてはならないと思った」
「自分の人生を見つめ直すきっかけになりました。ありがとうございます」

 

こういったコメント。至極真っ当なコメントだと思う。でも、何かが気になる。なんだろう。なんというか、自分が余命いくばくもない身だとして、面と向かって、もしくはネット上で、こう言われたら、ちょっとイヤだな、と思った。すごくイヤではないが、ちょっとイヤだ。

 

いや、別に、あなたのために生きてきたわけではないし、あなたのために死ぬわけでもない。気づきとか、変化とか、どうでもいい。僕は僕のために生き、僕の人生をまっとうし、死んでいく。それだけだから。あなたに示唆を与えるために生まれてきたわけではないし、あなたの人生観を変えるために死ぬわけでもない。勘弁してくれ、と思ってしまう。コメントをする側に悪意がないのは重々承知しているものの、善として受け取ることは、きっと、僕はできない。

 

では、死の床において、言葉をかけてもらうとしたら、どのような言葉をかけてもらいたいか。あれこれと考えてみたが、シンプルに、「いい人生だったね」と言ってもらえるのが一番嬉しい気がする。

 

幼稚園の頃は泣き虫で甘えん坊で、母親がそばにいないと泣きじゃくっていたこと。小学生の頃は足が速くて、卒業するまでずっとリレーの選手だったこと。中学生の頃はわりとモテて、バレンタインのチョコを10個以上もらっていたこと。初恋のこと。フラれたこと。大学の授業をさぼり、学内のベンチでよく寝ていたこと。就職活動のこと。社会人になってはじめたもらった給料のこと。会社を休んでふらりと海を見に行ったこと。夜、月を見たこと。友達のこと。母のこと。父のこと。結婚のこと。可愛い2人の子供のこと。過去のこと。これからのこと。とりとめのない僕の話を、うんうん、と時折頷きながら聞いてもらい、「・・・まあ、こんな感じのことがあったんだ」と話を終えたあと、静かに微笑みながら、「そう、色々なことがあったね。いい人生だったね」と言ってもらえたら、最高に嬉しい。

 

だから、僕は、死を前にした人に向かって、それがたとえネット上だとしても、「可哀想」とか「大変だね」とか「がんばって」とか「人生を見つめ直すきっかけになった」とかは言いたくない。相手が誰があろうが、若かろうが、年老いていようが、「いい人生でしたね」と言ってあげたい。

 

そんなことを、思った。

 

 

 

 

 

志望動機を問われた際のNGワード

「志望動機を教えてください」

 

定番中の定番の質問。多くの面接官は、まずはじめに、この質問を投げかけるのではないだろうか? なぜこの質問を最初にするのか。それは、この質問に対する返答で、その後の受け答えの質、就職活動生としての基礎体力が大体わかるから。お寿司屋において、玉子でその店の腕前がわかるというけれど、それと同じようなもの。

 

誤解なきように伝えておくと、その学生さんの本質がわかる、と言っているわけではない。あくまでも受け答えの質、つまり、どれだけしっかりと物事を考えているか、もしくは、考えてきたか。面接スキルの高さ、と言い換えていいかもしれない。

 

そして、この問いに対して、どういう答え方をするのが好ましいか?
まず、最悪なのは、企業理念を持ち出すこと。

 

「御社の○○○○という企業理念に共感し、そのような理念のもと、私も働きたいと思い、志望いたしました」のようなものは、最低だ。

 

理念の重要性を否定するわけではない。理念は、確かに必要だ。ただ、理念に共感しているか否かは重要ではないと思う。なぜなら、理念というものは、よほどの悪人や奇人でない限りは共感できるようになっている。例として、いくつかの企業の理念を列挙する。

 

●情報革命で人々を幸せに(ソフトバンク
●住まいの豊かさを世界の人々に提供する。(ニトリ
●21世紀を代表する会社を創る(サイバーエージェント
●地球上で最もお客様を大切にする企業であること(アマゾンジャパン)
●焼き鳥で世の中を明るくする(鳥貴族)
●優れた医薬品の創出を通じて人々の健康と医療の未来に貢献する(武田薬品工業

 

誰がこれらの理念を否定するだろうか?
人々なんか不幸になれ! お客様など糞くらえ! 焼き鳥で世の中を暗黒にしてやるー、という考えの人など、ほぼ皆無なのではないだろうか。

 

つまり、企業理念というものは必然的に万人に共感されるようにできているわけで、そこに対して「共感します!」と言っても、他の学生さんと比して差別化にはなり得ない。


多くの企業が求人要件として「弊社の理念に共感していただける方」と謳っているが、
その実、志望動機を問われた際、「御社の理念に深く共感をしました」と言っても、面接官には響かない。

 

そのことは、肝に銘じておこう。

 

 

 

 

 

就活本格化に向けて、しておくべきこと。

12月。そろそろ、就職活動を控えた学生さんが本格的に動きはじめる時期。
本やネット、もしくは既に就職活動を終えた先輩などから就活に向けたアドバイスを見聞きしたりしているだろうが、それでも、「何をしたらいいんだろう?」「どうやって動けばいいんだろう?」という疑問、不安の類は解消されないのではないだろうか。

 

今日は、そんな学生さんに向けて、そろそろこういうことをしといた方がいいと思うよ、という話をしたいと思う。

 

細かく挙げれば色々とあるのだけれど、就活で重要なものを大別すると、「インプット」と「アウトプット」の2つ。


インプット、というのは、経験から何を得て、何を感じたか、という意味。

会社員としての僕は、新卒における面接対応などもするが、「部活動で主将を務めていました!」「ボランティア活動をしていました!」「学生団体で代表を務めていました!」と、声高に、誇らしげに発信をする学生さんがよくいる。

 

(真偽はさておき)もちろん、それらの活動や役割を否定するものではないし、能動的にそういったことをする姿勢は評価するが、ただ、それだけでは、本人たちが期待するほどのプラス評価にはならない。へー、積極的なんだね、という感想を抱く程度。

 

大事なのは、どれだけ大きなことをしたか、重要な役割を担ったか、ではなく、何を感じたか、何を獲得したか、だ。主将や代表である必要はないし、ボランティア活動など、他者とは違った経験をしている必要もない。日常の出来事やありふれた役割の中にも、ドラマはあるし、緩急がある。 その中から、どういうことを感じ取ったかという感受性や、物事の受け止め方、考え方、そういったものを重視する。

 

だから、これから就活が本格化するに向けて、あわててとってつけたように新しいことをする必要はない。今までの自分の人生、体験を振り返り、どういうことがあって、どういうことを感じ、どのように自分が変化してきたか。そのことを、腰をすえて、じっくりと考えてみることをオススメする。

 

そして、アウトプット。
これは文字通り、自分の考えていることを伝える力。どれだけインプットが充実していても、それを企業に、面接官に正確に伝えられなくては意味がない。アウトプットを磨くためには、月並みなアドバイスだが、アウトプットをする練習をするしかない。

 

この時期になると、就職課が面接対策を実施してくれたりすると思うが、「けっ、そんなん恥ずかしくてやってられるか。俺は本番に強いから、練習なんかしなくてもなんとかなるよ」と、かつての僕のように強がらず、いきがらず、そういう機会があれば、どんどんと参加し、恥をかき、冷や汗を流そう。就職課じゃなくても、友達でも彼女でも親でも、誰でもいい。とにかく他者に聞かせ、フィードバックを受けること。それに尽きる。

 

就活は、これをしておけば絶対大丈夫!という秘訣もない代わりに、これをしなくちゃダメ!という特別な何かを要するものでもない。

 

上記のような当たり前のことを、当たり前にやっておく。つまらない真理だけど、そういうものだと思う。

 

 

 

歳の差なんて、ラララ。

ラブレター代筆に依頼をしてくる人は、大別すると2つのタイプにわけることができる。1つは、文章を考えることが不得手な人。もう1つは、文章を考える云々の前に、そもそも、想いを伝えることに対して躊躇をしている人。意外に思われるかもしれないが、後者の方が、割合としては随分と多い。

 

「話したこともないような相手に、告白をしていいものか・・・」
「一度別れた相手に、手紙を書くのは迷惑じゃないのか・・・」
「告白して断られたらどうしよう・・・」

 

そして、よくあるのが、
「こんなに年齢が離れている相手に告白していいのか・・・」
というもの。

 

僕個人は過去に付き合った相手で、最も歳が離れていたのは5歳。だから、偉そうに論じることはできないのだけれど、それでも、どうしてそんなに気に病むのだろうか、と不思議に思う。そして、その疑問をそのまま投げかけると、

 

「いや、なんていうんでしょう、なんか、ね・・・」

 

と、大概の人が、言葉を濁す。
明言はしないものの、歳の差を気にする人は、多くの場合、周りの声を気にしてのことなのだと思う。

 

「いい年のおっさんがハタチそこそこの嫁さんもらうって、ロリコンかよ!」
「あんなに年上の親父と付き合うなんて援交じゃないの!」

 

など、そんな声を気にしてのことではないだろうか。

 

一言。案ずるに及ばない。

 

歳の差についてどうこう言う人は、嫉妬に過ぎない。本心のところは、

 

「あんなに若い嫁さんもらって羨ましいな、ちくしょう!」
「ちょいワルな感じで素敵!くやしい~」

 

と思っているだけだ。


実際、過去に僕が出席した結婚式で、新郎が40歳、新婦が23歳というカップルがいた。
そして、なごやかな式の最中、僕は終始「ちくしょう!」と嫉妬の炎に身を包んでいたことがある。だから、間違いない。

 

余談はさておき、要は、周りの声は気にすることなどない、ということだ。


不倫のように誰かに迷惑をかけたりしているわけでもない。堂々と告白をすればいい。大手を振って付き合えばいい。誇らしくプロポーズをすればいい。それだけのことだ。

 

それに、年の差カップルというのは、お互いの容姿に惹かれて、というよりは、精神性による結びつきが強い印象を受ける。容姿は時の流れとともに劣化をするが、精神は劣化をするどころか深みを増していくので、関係が長続きするようにも思う。

 


ただ、僕には娘がいるが、ある日娘が彼氏を連れてきて、彼氏の年齢が自分と同程度、もしくは年上だったとしたら、正直なところ、うっ、とは思う・・・。それは、ご容赦いただきたい。

 

 

「海を見る自由」

僕は立教高校の出身なのだが、立教高校は、2011年の東日本大震災の発生に伴い、卒業式の中止を決定した。そして、タイトルの「海を見る自由」とは、立教高校の校長が卒業生に対して送ったメッセージ内の言葉だ。

 

素晴らしいメッセージなので、是非ともご一読を。

 

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ) | 立教新座中学校・高等学校


そして、なぜだかはわからないが、今日、発熱のために訪れた病院の待合室で、ふと、考えた。学校や親からの管理を離れ、ふらりと海を見に行けること、すなわち、「海を見る自由」が大学生活という時間の意味合いなのであれば、社会人なり社会人生活の意味はなんであろうか、と。

 

ぼんやりとした頭で考えてみた。

 

確かに、”自由”という言葉は、社会人生活にはそぐわない気がする。時間的な制約は大学生とは比ぶべくもない。昼休みに、ふらりと出かけ、そのまま海に行こうものなら、即クビとまではならないまでも、評価は下がるであろうし、「おいおい、あいつ、大丈夫か?」と社内で”おかしなヤツ”という評判が立つことだろう。

 

では、社会人とは?

 

考えて、たどり着いた結論は、大学生に「海を見る自由」があるのであれば、社会人には「海を選ぶ自由」と「海の価値を知る不自由さ」があるのではないか、ということ。

 

どういうことか?

 

「海を選ぶ自由」とは、すなわち、どこの海にでも行くことができる、”お金”ということだ。大学生は、海に行く自由がある。だが、行くことができる海は、金銭的な都合から、限られたものであると思う。

 

東京の大学生であれば、「ちょっと海行こうか?」というノリで行けるのは、千葉か静岡あたりの海だろう。だが、社会人であれば、もう少し遠くへ行ける。沖縄の海にも、海外の海にだって行くことができる。

 

そしてもう一つ、「海の価値を知る不自由さ」。こちらが特に重要だと思う。かつて大学生だったことがある人は、思い浮かべてみてほしい。当時、「ああ、自分って自由だなー」と思っていただろうか。答えは否だろう。少なくとも、僕は、そうは思っていなかった。時間があることが、管理されていないことが当たり前だったから、自分が自由であるとは思っていなかった。ただ単に、「暇だなー、なんか楽しいことないかなぁ」と時間を持て余していた。

 

「海を見る自由」もそれと同じ。自由な時は、自由の価値を、自分が自由であることを、自覚できない。失って、制約されて、はじめて気づくことができる。


だから、もし、大学生に「どうだ!俺たちはいつでも海を見ることができるんだぞ」と言われたら、僕はこう返したい。

 

「それがどうした。俺たちは、海の美しさを、その価値を、知っているぞ」と。